「市外」木山捷平
f0035084_20141412.jpg木山捷平 著
『群像』1962/10 初出

『苦いお茶』(新潮社 1963)
『白兎 苦いお茶 無門庵』(講談社文芸文庫 1995)

 江戸川橋へ用

 「私は池袋まであるくことにした。池袋まであるくと、その途中に、いまから三十七、八年前、私がはじめて上京した頃住んだ町がある。予定を変更して、今日は三十七、八年ぶりにあそこらへんに行ってみようと考えついた。
 江戸川橋をわたって、護国寺の前まできた。そこには護国寺前という都電の停留所がある。名前はおんなじだが、むかしはここが市電の終点で、ここから外側が、東京市外であった。
 私が間借りしていたところは雑司ケ谷という地名で、葉書や手紙に、芥川龍之介などが「東京市外田端」と書くのと同じように「東京市外雑司ケ谷」と書いて出すと、何となくそれがハイカラに感じられた。」


 護国寺前停留所「市内から通学する目白の女子大生が沢山ここでおりた。」

 停留所の前の東京私立尋常夜学校

 「私が雑司ケ谷に貸間を見つけたのは偶然に似ていた。」その理由

 「~~~、私はどこから墓地に入っていいのか、見当もつかなかった。
 都電道路にそった墓地の境界には、何の理由かはわからないが高くて堅くて頑丈なコンクリート塀が立って、中が見えなくしてあったからである。見当で私は塀にそって歩いた。そして二つ目の入口を左に曲って暫く行くと、私はやっと抱月の墓を見つけた。それから少し行くと、漱石の墓を見つけた。」


 「私は足を西の方にむけた。西のはずれの、墓地の一番はしっこの隅に、囚人墓地がある筈だったからである。」

 霊園事務所で尋ねると納骨堂のあったところが霊園事務所になっている。

 「~~~それからその納骨堂の付近に、市ヶ谷監獄共葬墓地という原っぱのようなものがあったはずですが」

 「青春のもやもやした憂鬱を墓地の散歩でごまかし、最後はここに来て草の上にねころんで、空を眺めたり本をよんだり物思いにふけったりして、時間をつぶすのが好きだったのである。」

 少女の思い出

 墓地を出て貸間のあったところを探す

 「ちょっとお伺いします。実はへんなことばかりおききして、恐縮なんですが、このへんに高田第四小学校という小学校はありませんでしょうか」
 と座敷に座っていたおかみさんにたずねると、
 「第四小学校は、そこを左に曲ったところですよ。もっとも今は日の出小学校と名前がかわりましたけれども」
 白髪まじりのおかみさんが、畳の上にきちんと座りなおした。

 中略

 「ええ、ええ。あの学校は震災で丸焼けになったんですからね。全然建築をやり直したんですから、元の面影はかけらにも残っていませんよ」

 日の出小学校へ

 「運動場の西南に肋木が一列にならんでいて、その一番はしの肋木のてっぺんの、さらに一間ばかり上に、私がかつて間借りしていた四畳半があった筈だった。現在は空間ばかりだから、私は見ているうち、だんだん自分の体までが、宙にういて行くような気がしてきた。」

 印象深い挿話が散りばめられた、回想紀行記。

木山捷平(1904<M37> - 1968<S43>)
1923<T12>年 高田第4尋常小学校、高田町大字雑司ケ谷字水原634に開校(『豊島区史年表編』)
1925<T14>年 木山捷平、東洋大学入学(後中退)
1932<S 7>年 西巣鴨町+高田町+長崎町+巣鴨町=「豊島区」可決(豊島区史年表編)
1933<S 8>年 高田第4小学校、焼失(『豊島区史年表編』)
1950<S25>年 日出小学校開校(『豊島区史年表編』)
1960<S35>年 木山捷平「雑司ヶ谷」『東京新聞』に掲載
1962<S37>年 木山捷平「市外」『群像』に掲載
1964<S39>年 木山捷平「若気のあやまち」『随筆サンケイ』に掲載

 
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# by ouraiza | 2002-01-01 00:04 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)
「雑司ヶ谷」木山捷平
f0035084_22511721.jpg木山捷平 著
東京新聞 昭和35・2
『角帯兵児帯』 昭和43年 三月書房 函 320P
『現代日本のエッセイ 角帯兵児帯 わが半世紀』 平成8年 講談社文芸文庫 内 約2P

 「指を折って数えるのも面倒なほどだが、いまから30何年前、私が大学生というモノであった時、そのころの東京市外雑司ヶ谷に住んでいたことがある。」

 「間借りの部屋は、内閣か大蔵省かの印刷局にでている人の二階で、家は高田第四小学校の正門前にあった。こんど苦心サンタンして、その家をさがしてみたが、見当たらなかった。いろんなことから推測判断して、その家のあった場所は、もとの高田第四小学校が改称して日の出小学校に名を改めた、その運動場のすみの水泳プールがあるあたりらしく思われた。
 もっとも間借りの部屋はつまらないから、私はけやきの大木が亭々とそびえている雑司ヶ谷の墓地を毎日のように散歩した。漱石、抱月、泡鳴などはむろん、見知らぬ人の墓文字をよんだりして歩いているとあきることがなかった。」

f0035084_1462790.jpg 「また時には、くぬぎの雑木林をぬけて、さびしげな池袋駅まで行き、やけぼっくいのサクにもたれて、向こうについている軽便鉄道みたいな汽車が黒い煙をはいているのを、長時間見物して帰ることもあった。」

木山捷平(1904<M37> - 1968<S43>)
「今から30何年前」 1925<T14>年 東洋大学入学 後中退
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# by ouraiza | 2002-01-01 00:03 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)
「墓地の散歩」 湯浅芳子
f0035084_392966.jpgf0035084_394896.jpg湯淺芳子著 『いっぴき狼』 筑摩書房 初版昭和41年 294P 四六判 箱
左/箱 右/口絵写真(クリック拡大)
「身辺随筆」内「墓地の散歩」約4P

 「長年雑司ヶ谷墓地の下に住んで、散歩といえばほとんど墓地の中、近年はそれもきまって犬のおとも。(中略) わたくしが上の墓地へのぼっていく道は二つあって、(A)家の前を右にとってまっすぐ祭場前に出る坂をゆくか、(B)その坂下からななめ右についているもうひとつの坂道をのぼって墓地の南西隅に出るか、である。そして行きに(A)をゆけば、復路は(B)というわけである。」
 「漱石はその文学も人柄も好きだけれど、あのドエライお墓の前に行くと、なんとしてもこれが漱石というひとの墓だとは思えないのである。漱石はふしあわせな人であった、という気がする。」

湯淺芳子(1896<M29>- 1990<H2>)
「あとがき」から「墓地の散歩」は昭和40年頃
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# by ouraiza | 2002-01-01 00:02 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)
「鬼子母神そばの家の人」中野重治
f0035084_3383954.jpg中野重治著
『東京百話 人の巻』 種村季弘編 ちくま文庫
『文藝春秋』昭和4年4月号
『夜明け前のさよなら』改造社 昭和5年
『中野重治随筆集』昭和15年
『中野重治全集 26巻』内「あけびの花」昭和53年
f0035084_1513532.jpg『あけびの花』平成5年 講談社文芸文庫

「三年ばかり前に私は雑司ヶ谷の鬼子母神のそばに部屋を借りていた。」
「ただ僕は、髪の毛をひっぱられたりしている合間合間に、彼らが僕にひらいて見せた優秀なその庶民の魂にたいして深い感謝の思いを送っているのであります。」
「三年ばかり前」昭和1年24歳
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# by ouraiza | 2002-01-01 00:02 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)