「寄宿学校」 須賀敦子
「寄宿学校」 須賀敦子_f0035084_17440098.jpg『ヴェネツィアの宿』 1993年 文芸春秋 (1998年 文春文庫)所収

 その日、私たちは、荷風のお墓をたずねることにした。よく晴れたあたたかい一日だったが、車で下谷から小石川によって雑司ヶ谷に着いたときには、もう四時をまわっていた。太陽が西に傾きはじめるとにわかに寒気がもどって、それまでのどかだった墓地が一瞬のうちに灰色の幕におおわれたようになった。
 めざす荷風の墓碑はなかなか見つからなくて、たしかこの辺りだったというあやふやな彼の記憶をたよりに、私たちはいくつもの角を曲って迷いつづけたあげく、待ちあい場所を決めてそれぞれが思う方向に行ってみることにした。そのあいだも、日はどんどん暮れていった。もうあきらめようとして、彼とわかれた地点に戻ろうと歩き出したとき、ふと、こんもりとした常緑樹の茂みが目にとまった。なんだろう、と興味をおぼえて正面にまわると、ちいさな鉄門のついた墓所だった。外国人のお墓だな、と思いながら、門についた紋章を見て、はっとした。それは、まぎれもなく、私が六歳のときから十六年間、なんだかんだと不平を言いながら勉強したあの学校の紋章だったからである。日本に来て、ふたたび故国に帰ることなく生涯を終えた修道女たちの墓所に違いなかった。御殿場の修道院にも、関西の宝塚に近い丘のうえの学校にもシスターの墓地はあって、学校時代の友人をかたらって詣でたこともあった。雑司ヶ谷にも何人かのお墓があると聞いてはいたけれど、ここまで来たことはなかったし、そのことはすっかり忘れていた。
 きいっと心をえぐるような音をたてる小さな鉄門をあけて私は中に入った。正面に、他よりは大きな十字架が一基あり、その前に二列に向きあって、それぞれの側に五、六基、より低い十字架がならんでいて、そのひとつひとつに、葬られた修道女の名と生年月日、そして亡くなった年と月日と、それぞれの故国の名がきざまれていた。親しかった人の名もあり、知らない名もあった。おもわず姿勢をただしたのは、畏敬の気持からというのとは、すこしちがっていた。しゃんと背をのばしなさい。修道女たちがそういって注意する声がきこえそうだったのだ。まっすぐ立って、私たちの顔を見てはっきり挨拶なさい。
「おーい、そんなところでなにしてるの。荷風はこっちだったよ」
 友人の呼び声に、また、ここにはいつかひとりで来よう、と思いながら、私は暗い小径を声の方角に歩いていった。
 

by ouraiza | 2002-01-01 02:35 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)
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