かりんとう    せと
7月13日月曜日。
 休養しようと決めていた定休日。
 寝ていて午前中の着信に気付かず、昼に父が入院している病院へ折り返すと、調子がだいぶ悪いとのこと。急いで各所への連絡と溜まっていた入院費支払いの段取りを済ませて病院へ。父はもう自力でまぶたを降ろすことができない。病院のウイルス蔓延防止対策で、付きっきりの付き添いもできない。1年半前に嚥下機能が低下して飲食ができなくなって以降熱望していたぶどうの粒を絞り口内洗浄用のスポンジに汁を吸わせ舌先を濡らす。来てくれた父の古い友人が、飲み屋での他愛無い話題を父に向ける。ライラックスのまばたきって曲好きだったよね。

 これで最期だと思い、言い残して後悔するのが嫌だったので父に大声で途切れ途切れの感謝を伝える。理解しているのかわからないが、父の目玉は動いてぼくを捉えている。次男の器用さだろうかとどこかで思う。
 夜駆けつけた兄と相談し実家泊。兄もぼくも今する必要のない話をべらべら喋る。YOUTUBE徘徊をしながら寝落ち。半径の大きな現実の半円に対抗するため、逆側へなるべく大きな半径の現実逃避のバネを引き、円の歪みを矯正する。
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7月14日火曜日。
 急な電話鳴らず。

 待機の日。様々な声。曇り空。
 合間に実家の周辺を散歩。政治家の大邸宅の大木。小学生の頃父とキャッチボールをした公園で蚊に刺されながら、林立する高い木々は多分幼少時と同じ木々のはずだと思う。そうだ、父はペンと箸は右手で持ち、ボールは左手で投げた。塑像の右半身を成形するときは右手、左半身のときは左手でヘラを持つ、両効きだった。通った保育園は思い出の中よりも大きかった。
 上板橋ブービックにて焼肉と白飯のゴールデンタッグの夕飯。

 深夜、床に入ってすぐの0時少し前、急な電話が鳴る。
 兄と叔父に連絡し、病院へ向かおうと実家の門を出ながらなにげなくスマホを見ると0時2分の表示。ベッドサイドに到着した0時20分に担当医から臨終を告げられ、心電図を見せてくれながら、診断書には時刻を0時20分と記入するが、実際に心肺機能が停止したのは0時2分だったと医師が教えてくれた。
 動かない父を前にして、生きている人間は生きている人間の世界を生きている、と思った。

 病院の駐車場へカバンを取りに行くと、ちょうどムトさんが自転車で駆けつけてくれた。看護士さんの指示に従い葬儀社の迎えを待つ間、どうしても過去の自分の薄情さばかりが胸に迫る。一人暮らしの父が脳出血で倒れ、比較的近くに住むぼくが父を看るようになったあの日からの日数を数えてみると2013日目だった。
 葬儀社が手配した車が到着。延命措置をしない長期入院できる病院から、父が2年ぶりに家に帰った。アトリエに並ぶ父の作品たちの表情がいつもより硬く見える。

7月15日水曜日。
 諸事多数。ろうそくにライターで火をつけようとして少し親指を火傷。

 葬儀社の方と諸々の打ち合せ後、実家近くのパーキングに停め続けていた車を一旦雑司が谷に戻し、店に寄る。今週末に予定していた組合北部支部総会が納棺式と重なってしまい出席できない旨を支部長へ連絡。司会の代打をコ本や清水さんに電話してお願いする。支部長がこだわって決定し、清水さんが手配係になってくれた参加者へのお土産である高級そうめんが非常に気になっていることも伝える。

 実家に戻り、父の書棚から古いアルバムを抜き出し若き日の父親を眺めるうちに、もっと楽しい瞬間を持ちたかっただろうな、という想いの乱気流にのまれ涙が断続的に噴出し息が止まる。円満な晩年、とは言えないので、泣こうとすればいくらでも泣く種がある。
 上板橋焼きトンひなたにてムトさんと軽ねぎらい会。焼き鳥に熱が傾きかけていたが焼きトンもやはり美味しい。

7月16日木曜日。
 諸事、連絡事項多数。供花をたくさんいただき実家内の簡易安置所が華々しい。
 儀式の段取りを兄と調整。

 築66年の古い家に遺体を安置していて、運良く涼しい日が続いてはいるがクーラーを止めることができず、漏電が心配、とのことで実家泊が続く。

 行ってみたかった友人ポンさんや店員ノムがひいきにしているよろい寿司さんへ。「あなご」の新しい扉が開いた。1980年頃創業とのことで、あの頃、子供が多く、商業が大ターミナル駅と大手企業フランチャイズに偏っておらず、私鉄沿線の小さな駅前の商店街が歩くのに苦労するほど混み合っていた時代のお話しをお聞きする。ぼくにもその外観がうっすら記憶にある上板東映劇場が閉館したのは1983年末日。後日、お前とあそこでドラえもん観たぞ、と兄が言っていたがなんとなくの外観以外まったく憶えていない。

7月17日金曜日。
 ご近所の方々が弔問に来てくださる。

 父の長期入院後、実家の諸事を担当してくれていた母も来て、約20年ぶりに家族が揃う。
 1万円ちょっとのポイントが今日までだ、と唐突に思い出し、近所のコジマ×ビックカメラ上板橋店に家族で出向き、あれかこれかと楽しく物色。結局ムトさんが使うトースターを選んでレジに持っていき財布の中でくちゃくちゃになっていたポイントが残っているという通知のDMを取り出すと、期限が一昨日の日付けである。普通に1万円のトースターを買って複雑な気分で雨に濡れながら皆で実家に戻る。

 父の遺体が家で寝ていることにも慣れてきて、顔を隠している白い布の上から父のお気に入りだった眼鏡をかけてみたりする。

 めんどくさいなあ、金が無いなあ、と嘆き、母親に「堂々としろバカ!」と叱られるアラフィフとミドルフォーティーの兄弟。父の前に線香を立てて鈴をチン。

7月18日土曜日。
 納棺式の準備。お香典(一般的な動かし難い常識とはいえ微妙に悪習だと思いながら)の管理。副葬品を選んだが、筆頭に思いついた塑像作品を作る道具であるヘラ、胸像の続編を計画していたらしい井上井月の句集以外、どうもその点に意識を集中する時間を持たなかったのでピンと来ず、告別式で追加しようと決める。

 午後、兄と母が実家にいるので雑司が谷に帰る。
 少し店番の後、ちょっとだけ時間の隙間ができたので、ムトさんと夏に解体される予定の元三角寛邸である料亭「寛」の見学にお邪魔する。赤い漆の壁が非常にかっこいい。雑司が谷の貴重な歴史。ずっとお尋ねしたかった客層について、もちろん個人情報に触れず大まかにでも教えていただけて嬉しい。料亭としての外観を何度か撮影のロケ地として提供なさったとのことだったので、いつか画面にハッとすることがあるかもしれない。

 久しぶりにあたまを空けて散歩。東池袋の交通事故の碑を眺め、サンシャイン横、元造幣局跡地にできた新しい公園、イケサンパークに入る。雑司が谷公園もそうだが、急に開けた広い空に突き出ているサンシャインとその周辺の高層ビルの眺めが新鮮。マンハッタンみたい、と適当に思うが、ここはやはりアスファルトの上にさらに吐き捨てられたチューインガムが鬼ころしの滴で練られて硬化した層が敷かれている池袋だ。

 夜、プレステ2の「鬼武者2」をプレイ。
 父親の療養に付き添うことが生活の一部になってからしばらくして、あることに気が付いた。稚拙ではあったが介護のようなことをし、時間を割いていると、自分の時間が減る。そのことがストレスになって(いるような気がして)、仕事の時間以外に”自分の時間”なるものを強引に作ろうとする。ところが、その時間に自分がなにをしているかというと、テレビゲーム、漫画読み耽り、ネット徘徊、その他くだらないこと、であった。リラックスする時間、と言えなくもないが、いずれにせよ、小さな取るに足らないことだけだった。ムキになってまで守ろうとしたのがこんな時間なのか。それに気付いて以降、ああ自分の時間が欲しいな、と願うと同時に、いやどうせたいしたことしないんだから、自分以外の人の為になることをかんがえるなどしたほうがいいんじゃない?と突っ込む意識が生まれた。この意識の続きはどう変化していくのだろう。いやしかし、ぼくはだらしなく、良く言えば弛緩の時間にやはり執着し、死守するのだろう。

7月19日日曜日。
 予報に反して陽が射す夏日。

 昼から納棺式。納棺師という職務に非常に驚く。おくりびと、よりも、野坂昭如の小説とむらい師たち、死の器などを想起する。やってみたい。自然ではないとも言えるが父が歌舞伎役者みたいな顔になった。うっかり笑いそうになるが抑える。噴き出しそうになる、のは普段は隠せているのに慣れない緊張状態でうっかり露出してしまうツボを急に刺されることによる。父が亡くなってすぐ遺体を部屋に寝かそうとした担架を持つ柔道家のような巨体で丸刈りの男性が、「北はあっちですから、オツムはこっちです」と仰ったときもぎりぎりだった。そうかオツムか。と。神妙にならねばと焦るほどツボの感度が増していき嫌だ。
 祖父が建てたアトリエ付きの実家は幸運にも広く、即霊安室行きではなく、父を短期間でも連れ帰れたことがある程度の落ち着きをもたらしてくれた。

 夕方、荒川土手に沿って建つ区立の葬儀場にて母と兄と兄嫁さんとムトさんと飾り付けと段取りの確認。追加の副葬品をどうするか話し合っているとき、誰かの声で「かりんとう」と聞こえた。探索の焦点が定まらず霧に包まれていたのだが、晴れた。父はかりんとうが何よりも好きだった。それも菓子専門店のものではなく、イトーヨーカ堂に売っていた安いもの。ついでに思い当たった、薬マニアだった父が特に頼っていたベンザリンという睡眠薬他の錠剤、カラオケ研究ノート、でやっと納得できた。

 準備が終わって葬儀場を出ると目の前の土手がどうしても気になり、皆で坂道を登って、自転車ライダーとランナーを避けながら少し土手を歩く。土手に上がれば川が見えると思っていたが、川までにはさらに緑地が続いていてまったく見えなかった。

 夜、上板橋鳥昇で母と食事。勝手がよく美味しい家族経営の広い居酒屋食堂。東京芸大を目指していた母と太平洋美術学校の生徒だった父が日暮里で出会った頃の話、三島自決の日のこと、などを聞きながらレモンサワーを4杯。
  

 

by ouraiza | 2020-07-20 18:26 | Comments(0)
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