4年前の正月明けに父親が急病で倒れた。母は離婚して近県の故郷に越しており兄は北陸の会社に勤めていたので、実家に行けるのはぼくしかいない。数年間顔を出していなかった実家に、突然その日から毎日通うことになった。
夕方急いで仕事を片付け病院へ行き父を見舞ってから実家に帰り、父親の関係先への連絡や郵便物の整理や日々現れる新たな医療事務書類の理解に努める。保険の制度、介護業界の流れなど、勉強になりつつもとても薄暗く心細いことではあった。そんな膨張した日々に通気孔をあけてくれたドリルの一つが、怪金魚マリーだった。 狭くるしい池の中で長い尾ひれを揺らめかせる姿にうっすらとした記憶が無いでもなかったが、まさかと思いつつ倒れてから約2週間後にやっと会話ができるようになった父に尋ねると、「そうだ、あれは健太郎(兄)が小学校か中学の時に縁日でとってきた金魚だ」という意味のことを応えた。少年だった兄かぼくが池に何か生物を放つというのはたまにあることだった。そしてたいていは長続きせず、庭の隅に穴を掘って遺骸を埋めた。しかし時には魚が環境に偶然適応したのだろう、想像以上に生命を長らえさせることもあったと記憶している。 おぼろな記憶のなかの生きもの盛衰史の一コマに、赤いボディに白いドレスのような尾をなびかせる金魚の姿が確かにあるし、父も高次脳機能障害のきざしがありながらも、それが20数年前から生きている金魚だと証言している。その神々しさを拠り所にしつつあったぼくは信じることにし、王妃にあやかってマリーと名付けた。 いつもの店の仕事に病院通いと実家帰りが重なりとりとめのなくなった脳に芯を通したかったのだと思う。当時の一時期、このブログに執拗にマリーを登場させた。 ■2015/4/17 ■2015/4/22 ■2015/4/23 ■2015/4/25 ■2015/4/29 ■2015/5/11 ■2015/5/13 ■2015/5/16 ■2015/5/22 ■2015/5/28 数ヶ月だけ戻るような変遷が1、2度あったが、ぼくも兄も大学入学のころに一人暮らしのために家を出た。年数で数えるともしかしたら、マリーは息子達よりも長期間家にいるのかもしれない。 実家は車通りのない入り組んだ細道に面し、子どものころ秘密基地への連絡路として遊んだ古い住宅区画の隙間と隙間が交差して人知の及ばぬ空間を育む、野良猫が住みやすい地域にあり、庭は絶えず野良猫たちが勢力争いをする関ヶ原だった。実家に毎日帰るようになってマリーに気付き、もう一つ、当時の猫軍のリーダーが、白黒の一匹だとわかった。大別すると黒の八割れ模様なのだが、その猫の額の八割れは妙に内側に丸まった八割れで、言ってみれば、下に開いたC割れである。眼を据えてこちらを堂々と睨むくせに、触ろうと体を動かした瞬間に走り逃げる、アンタッチャブルな猫だった。主が倒れ人の息吹が減った地をどうか守って欲しいという想いでそのふてぶてしい猫をモリーと名付けていた。 約半年の入院期間を経て父は実家に戻ることができた。ぼくは実家に通うのではなく寝泊まりすることになった。父は福祉業者のレンタルベッドでなんとか寝起きしつつ、しかし当然以前のように家の手入れができるわけがない。自分の病状にただ茫然とし続けているように見える父は、息子に定期的に自分が熱心にやっていた池の水掃除や群生する竹の害虫駆除を指示することもなかった。 今思い返すと、1年目の夏にその兆候が無いではなかった。新生活に慣れることで小さな脳のポケットを満たしていたぼくは、庭の手入れをほとんどしなかった。暑さで蒸発していく池の水をホースで補充すること数回。それ以上のことは意識下に追いやった。たまに様子を見に来てくれる叔父が繁茂する木々をみて「ゴミ屋敷だと思われるぞ」と指摘してくれた。後になって叔父の指摘は世間への体裁を気にすること以上の大切な道理を含んでいたと思うのだが、その時は体裁なぞどうでもいい、ゴミ屋敷で喘いでいる半身麻痺の父親と40代独身の息子という図も面白いではないか、と思っていた。叔父は枝切りばさみやノコギリで伸びすぎた枝を切ってくれた。しかしまだ父がリハビリをして立ち上がる、もしくはそのことに前向きになるという希望を持っていた我々は、以前から父が特に気に入って丹精していた竹には手を触れなかった。竹は大事だ、オレが手入れする、という想いが復帰のきっかけになる可能性があった。 ベッドからトイレまでの約10メートルを車椅子でぼんやりと往復している父がたまに床を指さし「またいた。ほれまたあそこに」と言っていた、台所やトイレの床を思い思いの方向へゆっくり這っていく黄色い小さな毛虫たちが竹から発生していることも全く知らなかった。女性ヘルパーさんが「あたし毛虫苦手なんです~~」とちょっとはしゃいでいるのを新鮮に可笑しく眺めていた。 介護の初歩見習いのような日々が続いた約1年後、実家に毎日帰るという特異現象にも慣れ始めたころ、北陸に赴任していた兄が会社に願い出て関東支社に移動してきてくれて実家の近くに住み、ぼくの役割は半分になった。週末には以前のように雑司が谷の一人暮らしのアパートで寝起きすることができるようになった。そのころからだろう、ぼくは以前の暮らし、仕事量に少しでも戻れることに浮き足立ち、怪金魚マリーのことも庭の手入れのことも以前に増して気にしなくなっていった。 2年目の夏、去年ちらほらとだけ出現していた黄色い小さな毛虫が、家の中の床のいたるところを這っていた。去年よりあきらかに増えていた。早朝4時頃に父が無線チャイムを押してぼくを呼ぶ内容が、「なにか美味いものはないのか」から「そこに虫がいるからとれ」に変わった。生物全般に詳しい兄によると、異常に降り続けた雨で土の中の水分量が高まり、土中にいた虫たちが地上に逃げてきている、とのことだった。毛虫のことを兄が調べると、タケノホソクロバという蛾の幼虫で、幼虫時には竹に寄生し竹を食べるのだという。庭に出て竹の幹、枝、葉をじっと見つめると、見慣れた黄色い幼虫と、成虫したての黒い蛾と、幼虫のものと思われる黒い糞のツブツブがびっしりとくっついている。 そして、それらを抱えたまま伸び、しな垂れて重なりあってできた竹の枝の屋根の真下に、マリーのいる池がある。 2年をかけてじわりじわりと準備されたタケノホソクロバの大量発生とマリーの池との関係に、その時初めて気が付いたのだ。 庭にしのび寄る生態系の危機を感じた兄は、片道2時間半の通勤を週6、運が良ければ5日続ける、自営業とは違った厳しい重圧の日々を送りながら、数少ない休日に近所の仲の良い同級生に手伝ってもらい庭の竹を一掃してくれた。しかし、長期間降り積もった幼虫の糞や幼虫そのものによって変化した池の水質、その環境に居続けたマリーの体質には、やはり遅すぎたのだと思われる。 マリーはいつの間にか下半身が膨れているアンバランスな体型になった。人間で言うと橫腹に、白い突起物があるように見えた。ひらひらと尾びれをなびかせ池の端から端へ優雅に泳いでいた姿はなく、重い体をなんとかまっすぐに保とうとして、水中よりも水面近くで、泳ぐと言うよりも浮いているようだった。マリー大丈夫か、と近寄ると、ゆらゆらと浮いた状態から少しだけ身を翻し、池の端から中程までは移動した。小さなころからずっと魚を趣味で飼っている兄に訊くと、長くは保たないだろうとのことだった。 その頃、野良猫モリーの姿をよく池の近くで見た。一度は池の水面に手を伸ばしていたのでうりゃっと突進して追い払った。不義理を重ね実家に寄り付かなかったぼくよりは、モリーはマリーのことを知っているだろうし、マリーも野良猫の多いこの環境はお手のもののはずだ。まだぼくはそんな感覚だった。 マリーがおかしいと気付いてから2週間後くらいだったか、1ヶ月も経っていたか、定かには憶えていない。ふと池を見ると、マリーはいなかった。庭の隅々を確認し、池の底まで棒を差し込んで探したが、自生する苔と落葉が揺れるばかりで、死体も無かった。マリーはもう、いなかった。 モリーは相変わらず家の周囲にいた。裏庭にいたり、おとなりの塀の上にいたり、屋根にいたりした。しかし以前のように池のそばで見ることはほとんどなかった。モリーを犯人に仕立て上げるのは容易なことだ。結局、ぼくの、干渉することからの逃走、という静かで残酷な不知火が、板橋区の片隅の王妃マリーを焼いたのだ。
by ouraiza
| 2019-08-01 13:35
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