東京古書組合発行のフリーペーパー『東京の古本屋』2017年12-2月号での作文改訂版です。 概ね事実ですが欠けた記憶の細部を大体の想定で補足しています。 8年前の初冬、ゆるやかな陽が差し、窓から街路樹の葉が風でほんのりとそよいでいるのが見える、穏やかさの中で時が止まったような午後1時半ごろだった。 長身でやせ形、灰色の髪を後ろになでつけ革ジャンを着た60代なかばと思われる男性が足早に店に入ってきた。大声で、にいちゃんさあ、買取りって来てくれる?と番台の横に立った。 その時期、買取りは深刻な凪の状態だった。買取りの波は、あるときには溺れそうなほど重なって押し寄せ、無いときにはすっかり干上がる。その日も開店してから諸事を済ませ、ああ、買取りが無さすぎてヤベー、なんかありがたい話ないかな、とぼんやり宙を眺めていたのだ。 「えっと‥‥どんな感じの‥‥」男の風体に多少の不安を覚えながら処分の概要をお尋ねした。 「巢鴨の(暴力団組織名)の事務所知ってる?けっこう有名なんだけどよ、俺そこの黒田ってんだけど」 買取りの波と同様、お客様の波もぱたりと止んでいる時期で店内に入ってくるお客様はほとんどおらず、黒田という男の大声はぼくにしか聞こえない。“反社会的勢力”に関する条例などが、まだ末端の小売店の耳にまで届いていないころだった。 以下黒田の話の要約。 ある男に金を貸したがぜんぜん返さないので、家族の承諾を得て実家から金目のものを運び出し事務所の一部屋に放り込んだ。その男の父親が歴史小説を書くなどする学者で、書斎に高額そうな歴史書が大量にあったのでとりあえず持ってきたが、部屋を他の用で使うのに邪魔でしょうがない。組織の幹部にも金に換えなくていいから片付けろと怒られている。いいかげんな買取り値でいいから早く全部持っていって欲しい。 「なんだっけな‥…額縁に入っててダ・ヴィンチの直筆なんとかってあったな‥‥全然読めねぇけど古い‥‥あ、俺わかんのはシバリョーとかイケナミなんとかの原稿とか色紙とか、なんかそういうやりとりする仲間なんじゃねえか、桐箱に入ってわんさかあってよ‥‥」 パソコンでパチパチすりゃ俺の事務所のこと出てくるからよ、目が悪くて小せぇ字読めねえんだよ、ちょっと見てくれよ。と言われ番台のパソコンで検索すると確かにその事務所の存在がその筋では有名だとわかった。 内容に期待してはいけないという経験上の直観と同時に、もしかしたら、という楽観もあった。なによりぼくが抱いたのは、ネタになる、という浅はかな思惑だった。近所の同業と安い酒場でヤキトンとレモンサワーを卓に広げ、こないださぁ面白い宅買いがあってさ~、いやぁぁ、例の事務所。怖かった~。などと上気してウケようと努めている自分が脳内劇場にいた。経済的にも市場に出せばある程度かそれ以上儲かると踏んだ。 その夜の早い時間に急いで伺うことを告げ、正確な住所を尋ねると黒田は、名刺が入った財布と眼鏡をここへ届けに部下が今車で向かっているから待ってくれ、と言う。唐突にガラケーをポケットから取り出しかかってきた電話に出る。 「バカそっちじゃねえよ、明治通りそのまま来いっつってんだよ、変なとこ曲がるなよ、サンシャイン方向じゃねぇってば」 大声でこちらに向かっている部下を叱る。たく若えもんは道を知らねえな、と嘆く。 近くで道に迷っているらしい部下を待つ間、ぼくが帳場横に置いた低い脚立に腰掛けながら現代の極道事情についての世間話をする。棚にあった実録ヤクザものムックを番台に持ってきて、目が悪く読むのが面倒なので、誰について書かれているのか少し読んでくれと請われその通りにすると、その人物についての感想をユーモラスに語る。黒田は決して威圧的ではなく、常識より少し声の大きな、気っ風の良さそうなおじさんだった。あいつ今どこだよ、とガラケーをパクっと開いて強く指で押し、部下に電話をかける。だから西武の前をそのままくりゃいいんだよ、店の兄さん待たせてんだから早くしろよ。ガラケーをパタ。視力の弱さを補佐しながらの世間話と部下への電話を数回、30分くらいは経っていた。 「あーしょうがねえなぁ。じれったくてたまんねぇからさ、そこの眼鏡屋、ほらレンガの壁の、あそこの社長馴染みだからさ、俺いま眼鏡買ってくるわ。」 ひざを叩く身振りで決意を表明しながら黒田は続けた。「あのさ、財布も車ん中だから、うちの若いのがすぐ届けて返すからさ、ちょっと金貸してくんない?」 レンガの眼鏡屋は店から300メートルほどの距離に実在する。昨日の売り上げが入った封筒を開け、じれったそうに足踏みしている黒田にぼくは1万円札を渡した。黒田はあきれ顔をして、イヤ俺が買う眼鏡はこれじゃ足りねえんだ‥‥ほらすぐ返すからさあ。居心地の悪い時間をさっさと終わらせたかったし、もし部下が来なくても今夜の買取り額から貸した金を引けばいい。さらに1万円札4枚を出して渡した。 黒田は札をポケットにねじ込みドアを開け、外に出ながら上半身だけ店内に残しぼくを見て大声で言った。 「兄ちゃん!がんばれよ!」 我に返って胸が凍りついたのは黒田が出て行って20秒後くらいだったろうか。眼鏡屋まで走ったが、背の高い初老の男はどこにもいなかった。 無念の想いに痺れながら通報し、店番の代わりが来てから行った警察署の小部屋で刑事さんからこの1ヶ月で2件、となり町の弁当屋さんとブティックがほとんど同じ内容の詐欺にあったと聞いた。 「ちなみに本屋さん、あなたが一番多く渡してるね。」 魔はいつも、まどろみに現れる。 昼の陽はすでに陰り、冬の本番を感じさせる冷たい風が吹いていた。 うなだれて店に戻る途中、視界をアスファルトで充たしながら、これからも必ず訪れるであろうまどろみの時を想った。
by ouraiza
| 2019-01-06 02:38
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