徳南晴一郎と雑司が谷   なつき
徳南晴一郎と雑司が谷   なつき_f0035084_0182497.jpg徳南晴一郎と雑司が谷   なつき_f0035084_0183698.jpg
ふだんなかなか新刊を買わないので、文芸文庫の背表紙のタイトル文字が若干細く角ばったフォントに変わった(っぽい)のも、平凡社新書が赤から青に変わったのも、最近店に入った商品で気づいた。どちらも半年以上前のことのよう。とほほ。

ということで、
文芸文庫 小田実『オモニ太平記』880円、杉本秀太郎『伊東静雄』940円
平凡社新書 竹内 栄美子『戦後日本、中野重治という良心』480円

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雑司が谷ネタふたつ。

大泉実成『消えたマンガ家』(太田出版)を読み返していたら、幻のカルト系ホラー漫画家徳南晴一郎が、一時期雑司が谷に住んでいたとの記述が。
本書の年譜の記述によると、昭和10(1935)年前後に大阪で生まれ、高卒後マンガ家を目指して上京、昭和34年(1959)ごろは早稲田の四畳半下宿に住み主に曙出版で月一作ペースで執筆、35・36年頃雑司が谷に転居、38年に引退するまで新境地をみせる怪奇作品をつぎつぎに発表・・・。
これは、と思い検索すると、ウィキペディアにもう少し詳しい情報が。

「幼稚園にあがる数年前にジフテリアを患い、下垂体性機能不全小人症を発病。このため身長140cmで発育が停止。そのため、子供の頃から常にいじめにあい、人間嫌いで神経質な性格の元となった。(中略)上京の目的のひとつは、東京在住の医学者緒方知三郎東大名誉教授を訪れてホルモンの投与を受け、人並みに背を伸ばすことにあった。」

「1957年10月に上京。雑司が谷にあった手塚治虫の住居"並木ハウス"に居候していたこともある。緒方知三郎を訪ねたものの年齢を理由に治療不可能なることを告げられ、落胆する。原稿の売込にも失敗したため前途に絶望。手塚家を出て雑司が谷の別の下宿に移ってからガス自殺を図ったが、大家が元栓を締めていたため未遂に終わる。
その後、曙出版で原稿の売込に成功し、同社から『怪猫雪姫』『怪猫紅行燈』『忍法無惨帖』などを上梓。同じ時期に早稲田へ転居。」
「1962年夏から本名に戻って『怪談 人間時計』『怪談 猫の喪服』などのシュールな作風の怪奇漫画を発表。このころ豊島区高田本町に転居。」

なんと並木ハウスに!急に焦点が定まってきました。ただこちらは前書と反対に「雑司が谷→早稲田→高田」という時系列で引っ越しているのが気になりますが、電子貸本Renta!で立ち読みできる『ひるぜんの曲』所収、徳南の直筆自伝でも「自分が東京で始めて暮らしたのは(中略)「並木ハウス」」とあるので、こっちが正しいのでしょう。
さらにそこには「昭和36年(1961年)冬、東京豊島区日出町交差点に立つ著者」の写真も!気になるなーこれどの辺かなー。


徳南晴一郎と雑司が谷   なつき_f0035084_3211439.jpg

ちなみに徳南の絵柄はこんな感じ。・・・好きかも。今度ちゃんと作品を買ってみます。


ふたつめ。
最近仕事をご一緒した、豊島区広報課の方から教えていただいたもの。
池内紀 『東京ひとり散歩』中公新書 2009.9 に雑司が谷が出てくる。
昭和15(1940)年兵庫に生まれ、18歳の時上京した池内は、北区滝野川、板橋ののち雑司が谷に割と長いこと住んだそうで、本書の「はじめに」にその旨が、それから4章「よそ者たちの都」に一節まるまる「鬼子母神懐古--雑司ヶ谷」と出てくる。(p.172~)

雑司が谷の情景描写、歴史説明、荷風の『日和下駄』や島木赤彦のススキミミズクを読んだ歌、三遊亭円朝「怪談乳房榎」といった古典をさまざまに取り上げながらの語り口はさすが。
興味深かったのは、戦前「雑司が谷の周辺には陸軍兵器庫、近衛騎兵連隊が置かれていた。そのかかわりから高級将校の官舎が雑司ヶ谷にあって、それが払い下げられたのち小さく区分けされたらしい」という箇所。
うーん知らないことがまだまだあります。


あ、しかも徳南氏と池内氏が雑司が谷に住み始めた時期ってほんの数年違いなんじゃないかな。もしかしたらかぶっているかもしれません。


なつき
by ouraiza | 2009-12-01 00:31 | ふらふら散歩(終了) | Comments(4)
Commented by 端午 at 2009-12-01 08:58 x
雑司が谷本情報。
ご存知かも知れませんが、「流星刀の女たち/森雅裕(講談社文庫)」も雑司が谷が舞台です。未読でしたら是非ご一読を。
Commented by 星跡堂 at 2009-12-01 23:51 x
いつも拝見しております。
>興味深かったのは、戦前「雑司が谷の周辺には陸軍兵器庫、近衛騎兵連隊が置かれていた。そのかかわりから高級将校の官舎が雑司ヶ谷にあって、それが払い下げられたのち小さく区分けされたらしい」という箇所。

「雑司が谷周辺」の「陸軍兵器庫」はたぶん、今のお茶大の所だと思われますが、昭和の初めにはお茶大になっています。→
http://www.tef.or.jp/maibun/topic/sokuho-kohinata.html

また「近衛騎兵連隊」は、戸山、今の学習院女子部や戸山高校。学習院女子部敷地内には今も当時の赤煉瓦の建物が遺っていますよ。→
http://military-web.hp.infoseek.co.jp/ikou/ikou-konoekihei.htm
Commented by なつき at 2009-12-09 03:56 x
お返事が遅くなって申し訳ありません~。


>端午さま 
お久しぶりです!変わらず当ブログを見ていただけて嬉しいです。
『流星刀の女たち』全然知りませんでした。刀鍛冶の物語らしいですね。しかも女子大生の・・・。
立教とか学習院あたりが舞台として出てこないかしらん。
むむ、面白そうです。今度探してみます!ありがとうございましたー。
Commented by なつき at 2009-12-09 03:57 x
>星跡堂さま
はじめまして。コメントありがとうございます。
そうでした、戸山のことを失念してました。あそこは軍関係の施設がいろいろあったんでしたね。
お茶大の話はびっくりです。昔、千葉の佐倉連隊について調べたことがあるのですが、
あそこも佐倉城が明治に解体され、兵営や弾薬庫、病院などの軍用地が建てられたという歴史があるそうで、
「城→軍施設」の構造がそっくりなので驚きました。
学習院女子では単位互換制度を使って授業を受けたことがあったのですが、
あー、確かに裏門の近くに煉瓦の建物がありました・・・。あの時素通りしてしまったのが悔やまれます。
いやはや、勉強になりましたー。
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