<   2002年 01月 ( 51 )   > この月の画像一覧
雑司が谷の本 メモ
・雑司が谷に触れた箇所のあるもの
・本の情報表記の様式は不統一
・作品の収録された文献はここに挙げたものが全てとは限らない
・地名だけの地図、ガイドは含まない


・在庫のご案内ではありません
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by ouraiza | 2002-01-31 23:59 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)
「夏の日」 大木実
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『詩集 夜半の声』 著/大木実 (昭和51年 限定500部 潮流社)所収
「夏の日」

 早稲田から王子へ、東京では市街を走る電車の殆どが、撤去され
すがたを消してしまったのに、この路線だけはいまだに残されて、
町裏を、家々のうしろを、走り続けていた。
 早稲田から乗り、いちどここを通った覚えがあるが、そのときど
こまで行ったのか、どこで降りたのか、記憶がないのはたいした用
事ではなかったのだろう。遠い日のことだ。ひとり身の青年の日の
ことだ。
 きょう、私は鬼子母神前の停留所に立って、僅かのひとを乗せ眼
の前を過ぎていく電車を眺めていた。白絣を着た私も乗っていた。
一枚の切符を握りしめて外を眺めている、三十年前の若い私が――。

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by ouraiza | 2002-01-01 01:50 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)
『吉田一穂詩集』年譜
f0035084_1365410.jpg『吉田一穂詩集』加藤郁乎編 2004 岩波文庫
年譜
一九七三(昭和四十八)年
一月十二日、東京都豊島区雑司ヶ谷の鬼子母神病院に入院。三月一日、午後三時二十三分、同病院にて心不全のため永眠。享年七十四歳。同月三日、三鷹市下連雀の禅林寺で告別式が執り行われる。(後略)

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by ouraiza | 2002-01-01 01:45 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)
『断腸亭日乗』永井荷風
f0035084_15144558.jpg永井荷風(壮吉 1879[明治12]年 - 1959[昭和34]年)
『断腸亭日乗』<1917(大正6・39歳)年9月16日〜1959(昭和34・81歳)年4月29日の日記>
「先考」・・・父・永井久一郎(匡温/まさはる 1852[嘉永5]年 - 1913年[大正2]1月2日)

参考
『荷風全集 〈全28巻〉』岩波書店(1962〜 )第19巻 - 第24巻
『荷風全集 〈全28巻〉』岩波書店(1962〜 )第 巻「索引」
『断腸亭日乗 〈全7巻〉』岩波書店(1980〜)第7巻「索引」(「雑司ケ谷」「鬼子母神」)
『新版 荷風全集 〈全30巻〉』岩波書店(1992 〜 )第26巻「『断腸亭日乗』索引」(「雑司ケ谷」「鬼子母神」)

「雑司が谷」(「雑司ケ谷」「雑司谷」「雑司ヶ谷」)という記述→25回
来訪した記述→18回
「鬼子母神」とういう記述→4回


1917(大正6)年9月16日~ 39歳
無し


1918(大正7)年 40歳
1月2日

正月二日。13 暁方雨ふりしと覚しく、起出でゝ戸を開くに、庭の樹木には氷柱の下りしさま、水晶の珠をつらねたるが如し。午に至つて空晴る。蝋梅 の花を裁り、雑司谷に往き、先考の墓前に供ふ。音羽の街路泥濘最甚し。夜九穂子来訪。断腸亭屠蘇の用意なければ倶(とも)に牛門の旗亭に往きて春酒を酌む。されど 先考の忌日なればさすがに賤妓と戯るゝ心も出でず、早く家に帰る。
11月15日
十一月十五日。階前の蝋梅一株を雑司ケ谷先考の墓畔に移植す。〜〜

1919(大正8)年 41歳
1月1日

〜〜。自働車を命じ、雑司ヶ谷墓参に赴かむとせしが、正月のことゝて自働車出払ひ、人力車も遠路をいとひ多忙と称して来らず。風吹出で 寒くなりしかば遂に墓参を止む。夕刻麻布森下町の灸師来りて療治をなす。大雨降り出し南風烈しく、蒸暑き夜となりぬ。八時頃夕餉をなさむとて桜木に至る。 芸者皆疲労し居眠りするものあり。八重福余が膝によりかゝりて又眠る。鄰楼頻りに新春の曲を弾ずるものあり。梅吉節つけせしものなりと云。余この夜故なき に憂愁禁じがたし。〜〜
1月2日
正月二日。曇りてさむし。午頃起出で表通の銭湯に入る。午後墓参に赴かむとせしが、悪寒を覚えし故再び臥す。夕刻灸師来る。夜半八重福春着裾模様のまゝに て来り宿す。余始めて此妓を見たりし時には、唯おとなしやかなる女とのみ、別に心づくところもなかりしが、此夜燈火につくづくその風姿を見るに、眼尻口元 どこともなく当年の翁家富枩に似たる処あり。撫肩にて弱々しく見ゆる処凄艷寧富松にまさりたり。早朝八重福帰りし後、枕上頻に旧事を追懐す。睡よ り覚むれば日既に高し。
1月3日
正月三日。快晴稍暖なり。午後雑司谷に往き先考の墓を拝す。去年賣宅の際植木屋に命じ、墓畔に移し植えたる蝋梅を見るに花開かず。移植の時節よろしからず枯れしなるべし。夕刻帰宅。草訣辨疑を写す。夜半八重福来り宿す。

1920(大正9)年 42歳
無し


1921(大正10)年 43歳
無し


1922(大正11)年 44歳
1月2日

正月二日。正午南鍋島町風月堂にて食事をなし、タキシ自動車を雑司ケ谷墓地に走らせ先考の墓を拝す。去年の忌辰(=忌日)には腹痛みて来るを得ず。 一昨年は築地に在り車なかりしため家に留りたり。此日久振にて来り見れば墓畔の樹木俄に繁茂したるが如き心地す。大久保売宅の際移植したる蝋梅幸にして枯 れず花正に盛なり。此の蠟梅のことは既に断腸亭襍稾の中に識したれば再び言はず。
9月17日
九月十七日。昨夜深更より風吹出で俄に寒冷となる。朝太陽堂主人来談。午後雑司ケ谷墓地を歩み小泉八雲の墓を掃ふ。塋域に椎の老樹在りて墓碑を蔽ふ。碑には右に正覚院 殿浄華八雲居士。左に明治三十七年九月二十六日寂。正面には小泉八雲墓と刻す。墓地を横ぎり鬼子母祠に賽し、目白駅より電車に乗り新橋に至るや日既に没 し、商舗の燈火燦然たり。風月堂に食して帰る。

1923(大正12)年 45歳
無し
9月1日 関東大震災


1924(大正13)年 46歳
1月2日

正月二日。晴れて好き日なり。お榮を伴ひ先考の墓を拝す。夜五山堂詩話を読む。

1925(大正14)年 47歳
1月1日

正月元日。快晴の空午後にいたりて曇る。風なく暖なり。年賀の客はひとりも來らず。午下雑司谷墓参。帰途関口音羽を歩む。音羽の町西側取りひろげらる。〜〜

1926(大正15・昭和1)年 48歳
1月1日

〜〜。昼餔の後、霊南阪下より自働車を買ひ雑司ケ谷墓地に行きて先考の墓を拝す。墓前の蝋梅今年は去年に比べて多く花をつけたり。帰路歩みて池袋の駅に抵る。沿道商店旅館酒肆櫛比するさま市内の町に異らず。王子電車の線路延長して鬼子母神の祠後に及べリと云ふ。池袋より電車に乗り、渋谷に出で、家に帰る。〜〜
1月2日
(父親が脳溢血で倒れた時、芸妓八重次と箱根塔之沢で遊んでいたこと、父親の死前後の様子)〜〜。来春閣に殯(かりもがり)すること二昼夜。五日の朝十時神田美土代町基督青年会館にて邪蘇教の式を以て葬式を執行し、雑司ヶ谷墓地 に葬りぬ。先考は耶蘇教徒にてはあらざりしかど、平生仏僧を悪み、常に家人に向つて予が葬式は宣教師に依頼すべし。それも横浜あたりの外国宣教師に依頼するがよし。耶蘇教には年会法事の如き煩累なければ、多忙の世には之に如くものなしなど語られし事ありしかば、その如くになしたるなり。〜〜

1927(昭和2)年 49歳
1月2日

正月二日 好晴、今日の如き温暖旧臘より曾て覚えざる所なり、午下自働車を倩(やと)ひ雑司ケ谷墓地に赴く、道六本木より青山を横ぎり、四谷津の守坂を下りて合羽坂を上り、牛込辨天町を過ぎて赤城下改代町に出づ、改代町より石切橋の辺はむかしより小売店立続き山の手にて繁華の巷なり、今もむかしと変る処なく彩旗提燈松飾など賑かに見ゆ、江戸川を渡り音羽を過ぐ、音羽の街路広くなりて護国寺本堂の屋根遥かこなたより見通さるゝやうになれり、墓地裏の閑地に群童紙鳶を飛ばす、近年正月になりても市中にては凧揚ぐるものなきを以てたまたま之を見る時は、そゞろに礫川のむかしを思ひ出すなり、又露伴先生が紙鳶賦を思出でゝ今更の如く其名文なるを思ふなり、車は護国寺西方の阪路を上りて雑司ケ谷墓地に抵る、墓地入口の休茶屋に鬼薊清吉の墓案内所と書きたる札下げたるを見る、余が馴染の茶屋にて香花を購ひまづ先考の墓を拝す、墓前の蠟梅馥郁たり、雑司谷の墓地には成島氏の墓石本所本法寺より移されたる由去年始めて大島隆一氏より聞知りたれば、茶屋の老婆に問ふに、本道の西側第四区にして一樹の老松聳えたる処なりといふ、松の老樹を目当にして行くに迷はずして直ちに尋到るを得たり、石の墻石の門いづれも苔むして年古りたるものなり、累代の墓石其他合せて十一基あり、石には墓誌銘を刻せず唯忌日をきざめるのみなり、歩みて再び護国寺門前に出で電車に乗りて銀座に抵るに日は忽ち暮れんとす、太牙楼に登り夕餉を食し家に帰らんとするに邦枝日高林の諸氏来りしかば、この夜もまた語り興じていつか閉店の刻限に至りぬ、日高氏と電車を与にして家に帰れば正に三更なり、
11月14日
十一月十四日 好晴、南風吹き徹して遽(にわか)に暑し、書斎を掃除して後書架を整理す、午後人を倩(やと)ひて雑司谷墓地管理所および小石川区役所に赴かしめ、墓地私有地の名義を余が名に書替へしむ、先考歿後墓地私有地証書母上の許に在り一時見当らざりしかば今日まで書替の手続きをなすこと能はざりしなり、夜初更壷中庵に赴きて宿す、

1928(昭和3)年 50歳
1月2日

正月二日 晏起既に午に近し、先考の忌日なれば拝墓に往かむとするに、晴れたる空薄く曇りて小雨降り来りしかば、いかゞせむと幾度か窓より空打仰ぐほどに、雲脚とぎれて日の光照りわたりぬ、まづ壷中庵に立寄り、お歌を伴ひ自働車を倩(やと)ひて雑司ヶ谷墓地に往き、先考の墓を拝して後柳北先生の墓前にも香華を手向け、歩みて音羽に出で関口の公園に入る、園内寂然として遊歩の人なく唯水声の革堂(※革偏に堂)鞳たるを聞くのみ、〜〜

1929(昭和4)年 51歳
1月2日

正月二日 空隈なく晴れわたりしが夜来の風いよいよ烈しく、寒気骨に徹す、午前机に向ふ、午下寒風を冒して雑司ケ谷墓地に往き先考の墓を拝す、墓前の蝋梅今猶枯れず花正に盛なり、音羽の通衛電車往復す、去年の秋頃開通せしものなるべし、去年此の日お歌を伴ひ拝墓の後関口の公園を歩み、牛込にて夕餉を食して帰りしが、今日は風あまりに烈しければ柳北八雲二先生の墓にも詣でず、車を倩(やと)ひて三番町に立寄り夕餉を食し、風の少しく鎮まるを待ち家に帰る、夜はわづかに初更を過ぎたるばかりなれど寒気忍びがたきを以て直に寝につきぬ、

1930(昭和5)年 52歳
無し


1931(昭和6)年 53歳
無し


1932(昭和7)年 54歳
1月1日

〜〜、午後三時過電車にて音羽護国寺前に至り、それより歩みて雑司谷墓地に赴き先人の墓を拝す、墓畔の蝋梅今猶枯れず二三輪の花をつけたり、小泉八雲成島柳北二家の墓にも香花を手向けて後、鬼子母神に賽し、また明法寺の境内を歩む、二王門より本堂前の石段にいたる間大なる榎二三株あり、其一には周囲に柵を結び幹に注連縄を張りたり、依然名所絵の光景なり、鬼子母神祠外の道に立ちたる並木の榎も亦むかしの如し、商店の間を歩み行けば直に王子電車の停留所に至る、面影橋を渡り早稲田に出で、市内電車に乗換へて飯田橋に至るに、日は既に暮れて松飾の竹さらさらと夕風に鳴りそよぎ、霰降り来りぬ、神楽坂上田原屋に入りて夕飯を命ず、〜〜

1933(昭和8)年 55歳
1月1日

正月元日。晴れて暖なり。午後雑司谷墓地に往き先考の墓を掃ふ。墓前の蝋梅馥郁たり。先考の墓と相対する処に厳瀬鴎所の墓あればこれにも香華を手向け、又柳北先生の墓をも拝して、来路を歩み、護国寺門前より電車に乗り、伝通院に至り、大黒天に賽す。

1934(昭和9)年 56歳
1月1日

正月元日 旧暦十一月十六日 晴れて風なし。朝の中臥蓐(がじょく)に在りて鴎外全集補遺をよむ。午後雑司ケ谷墓地に抵り先考の墓を拝す。墓畔の蝋梅古幹既に枯れ新しき若枝あまた根より生じたれば今は花無し。先考の墓と相対して幕臣岩瀬鴎所の墓あり。刻する所の文左の如し。
〜〜岩瀬鴎所(忠震/ただなり)の墓石に刻まれた文面の引用19行〜〜
墓地を出で音羽の町を歩み、江戸川橋に至り、関口の公園に入る。公園の水に沿ふ処一帯の岸は草木を取払ひセメントにて水際をかためむとするものの如く、其工事中なり。滝の上の橋をわたり塵芥の渦を巻きて流れもせず一所に漂ふさまを見る。汚き人家の間を過ぎ関口町停留塲より電車に乗り、銀座に徃けば日は既に暮れたり。オリンピク洋食店休業なれば歩みて芝口の金兵衛に至り夕飯を命ず。主婦来りて屠蘇をすゝむ。余三番町のお歌と別れてより正月になりても屠蘇を飲むべき家なし。此夕偶然椒酒の盃を挙げ得たり。実に意外の喜なり。食後直に家にかへる。
余年年の正月雑司ケ谷墓参の途すがら音羽の町を過るとき、必思出す事あり。そは八九歳のころ、たしか小石川竹早町なる尋常師範学校附属小学校にて交りし友の家なり。音羽の四丁目か五丁目辺の東側に在りき。鳩山一郎が門前に近きあたりのやうに思へど明ならず。表通にさゝやかなる潜門あり。それより入れば三四間ばかり(即表通の人家一軒ほどのあいだ)細き路地の如くになりし処を歩み行きて、池を前にしたる平家の住宅の縁先に出るなり。玄関も格子戸口もなかりき。縁先に噴井戸ありて井戸側より竹の樋をつたひて池に落入る水の音常にさゝやかなる響を立てたり。此井戸の水は神田上水の流なりといへり。夏には西瓜麦湯心天などを井の中に浮べたるを其の家の母なる人余が遊びに行く折取り出して馳走しくれたり。余が金冨町の家にはかくの如き噴井戸なく、また西瓜心天の如きものは害ありとて余は口にすることを禁じられ居たれば、殊に珍らしき心地して、此の家を訪ふごとに世間の親達は何故にかくはやさしきぞと、余は幼心に深く我家の厳格なるに引きかへて、人の家の気儘なるを羨しく思ひたりき。或日いつもの如く学校のかへり遊びに行きたるに、噴井戸の側に全身刺青したる男手拭にて其身をぬぐひゐたるを見たり。これは後に聞けば此家の主人にて、即余が学友の父なりしなり。思ふに顔役ならずば火消の頭か何かなるべし。されど唯一度遇ひしのみにて其後はいつもの如く留守なりしかば、いかなる人なるや其名も知らずに打過ぎたり。此家には噴井戸の水を受くる池のみならず、垣の後より崖の麓に至る空地にも池ありて、蓮生茂りたり。又崖は赤土にて巌のごとくに見ゆる処より清水湧出でたり 崖の上は高台なれど下より仰けば樹ばかり見えて人家は見えざるなり 余は友と共にこの池にて鮒を釣りたる事を記憶す。明治廿四年の春三条公爵葬儀の行列音羽を過ぎて豊嶋ケ岡の墓地に到りしことあり。余はその比既に小石川を去りて麹町永田町なる父の家に在りしが、葬式の行列を見んとて音羽なる友の家を訪ひ、其門前に佇立みゐたることあり。其後は学校も各異りゐたれば年と共にいつか交も絶え果て、唯幼き時の記憶のみ残ることゝはなれるなり。今は其人の姓名さへ思ひ出し得ざるなり。

1935(昭和10)年 57歳
1月1日

正月元日。雨霽(は)れて一天拭ふが如く暖気四月に似たり。三時過雑司ヶ谷墓地に往き先考の墓を拝す。墓地を出るに三ノ輪行の電車線路に行当りたれば、来合はす電車に乗る。尾久停車場の近くに大なる神社あり。参詣の人雑遝(ざっとう)せり。
1月2日
  元日やひそかに拝む父の墓
  行くところ無き身の春や墓詣
他3句

1936(昭和11)年 58歳
1月1日

正月元日。晴れて風静なり。午頃派出婦来りし故雑司谷墓参に赴かむとする時、鷲津郁太郎来る。その後宮内省侍医局に出勤すると云ふ。日も晡(ひぐれ)ならむとする頃車にて雑司ケ谷墓地に赴く。先考及小泉八雲、成島柳北、岩瀬鷗所の墓を拝し漫歩目白の新坂より音羽に出づ。

1937(昭和12)年 59歳
1月1日

正月元日 旧十一月十九日 くもりて風なく暖なり。朝十一時眠よりさめて紅茶に黒麺麭(ぱん)を食すること二片ばかり。午後一時昼飯を食して家を出づ。谷町より円タクを倩(やと)ひ雑司ケ谷墓地に赴き先考の墓を掃(はら)ひ、又成島柳北の墓前に香花を供ぐ。鬼子母神に賽し祠後の停車場より電車にのり大塚王子を過ぎて三ノ輪停車場に至る。高島田に結ひたる娘多し。近年の流行なるべし。亀井戸行の市営バスに乗り白髯橋をわたり玉の井にいたる。
9月9日
九月九日。晡下雷鳴り雨来る。酒井晴次来り母上昨夕六時こと切れたまひし由を告ぐ。酒井は余と威三郎との関係を知るものなれば唯事の次第を報告に来りしのみなり。葬式は余を除き威三郎一家にて之を執行すと云ふ。共に出でゝ銀座食堂に夕飯を食す。尾張町角にて酒井とわかれ、不二地下室にて空庵小田某他の諸氏に会ふ。雨やみて涼味襲ふが如し。
〔欄外朱書〕母堂鷲津氏名は恒文久元年辛酉九月四日江戸下谷御徒町に生る儒毅堂先生の二女なり明治十年七月十日毅堂門人永井久一郎に嫁す一女三男を産む昭和十二年九月八日夕東京西大久保の家に逝く雜司谷墓地永井氏塋域に葬す享寿七十六  追悼  泣きあかす夜は来にけり秋の雨 秋風の今年は母を奪ひけり

1938(昭和13)年 60歳
1月4日

正月四日。晴。北風寒し。正月四日。晴。北風寒し。午後雑司谷墓参。歩みて池袋停車場前池平食堂に其主人日高氏を訪ふ。樓上(ろうじょう)の窓より甲武の山影を凍雲の間に望む。忽にして夜となる。省線電車にて銀座に至り不二地下室に食(*漢字無し)す。帰宅後執筆深更に及ぶ。水道の水凍る。

1939(昭和14)年 61歳
無し


1940(昭和15)年 62歳
無し


1941(昭和16)年 63歳
無し


1942(昭和17)年 64歳
無し


1943(昭和18)年 65歳
無し


1944(昭和19)年 66歳
無し


1945(昭和20)年 67歳
無し


1946(昭和21)年 68歳
無し


1947(昭和22)年 69歳
無し


1948(昭和23)年 70歳
無し


1949(昭和24)年 71歳
無し


1950(昭和25)年 72歳
無し


1951(昭和26)年 73歳
無し


1952(昭和27)年 74歳
無し


1953(昭和28)年 75歳
無し


1954(昭和29)年 76歳
無し


1955(昭和30)年 77歳
無し


1956(昭和31)年 78歳
無し


1957(昭和32)年 79歳
7月11日

七月十一日。雨。後に陰。正午浅草。雑司ケ谷墓地税金五百拾円を雷門郵便局に支払ふ。

1958(昭和33)年 80歳
無し


1959(昭和34)年 81歳
無し

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by ouraiza | 2002-01-01 01:40 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)
「霊園にて・bpm198―」石丸元章
f0035084_0562071.jpg『en-taxi』2005/11 掲載(小説)

 略
 雑司ヶ谷の霊園まで―――。
 近所からタクシーに乗ると、三人に一人くらいの運転手が「はい」と応じたあとで、「墓地ですか。その近くですか?」と返してくる。
 ぼくはいつも「霊園。雑司ヶ谷の霊園まで」と答える。今夜もそうだった。

 略
 この森に踏み入るとき、ぼくはあらゆる場所で、季節を問わず、昼間であってさえ、いつ、そこで、なぜ歩みを進めているのかを見失ってしまう。
 しかし、いつもにわかにわかってくるのだ。雑司ヶ谷の霊園には、世界と、世界に付属するすべてから離脱した純粋な「時間」が存在している。
 ぼくはそれをよく楽しむ。

 略
 彼女が、雨水の溜まっている墓という墓の花受けにドライアイスの破片を放り込んでいる。
 つられてぼくも笑った。
 雑司ヶ谷霊園の近くにはドライアイスの問屋があり、ぼくたちはときどきそこで売り物をわけてもらっては、今日のような悪ふざけをするのだ。

 略
 「あのね……」
 「ん?」
 「漱石のお花を見にいこうよ」
 「うん、手を合わせにいこう」
 突然彼女が大胆に駆けだしたのでぼくはあわてて大声を上げた。
 「あぶないだろ、走るな!」
 「大丈夫、きょうはなんのお花だろう」

 略
 漱石の墓に着くと、彼女はすでに墓前に立ち、息をはずませたまま頭を垂れて手を合わせている
。まわりこんで彼女に並ぶと―――。コラーッ!!
 夜明けと同じ色の淡い花が供えられている漱石の花指しから、ドライアイスの白い煙がぽこぽことあふれ出し、ダメだろ、こんなことしちゃ!! ぼくたちは同時に声をあげて笑った。

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by ouraiza | 2002-01-01 01:35 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)
「東京のお盆 雑司が谷」 石田千
f0035084_2105092.jpg『踏切趣味』筑摩書房 平成17年初版 所収
『彷書月刊』平成14年9月号 初出

 雑司ヶ谷霊園は、泉鏡花、永井荷風、夏目漱石、そうそうたるひとたちのお墓がある。管理事務所に行くと、案内図がもらえる。樹木保存の寄付をすると、わけてくれる。霊園のあらましと、地図、埋葬著名人一覧があって、六十六の墓碑案内。 

 墓は、死んだひとのためのものと思っていた。なんにもいわない墓石の世話を熱心にするひとたちをみるうちに、墓はいきているひとのためにあるとわかる

 泉鏡花の墓は、枯葉がつもり、墓前に植えられたあじさいがしおれている。せっかく来たから、花屋でほうきと水桶を借りてきて、蚊に刺されながら、掃除した。 

 永井荷風の墓碑は、永井家の墓とお父さんの墓にはさまれている。まわりを垣根でかこんであって、南天、さるすべり、もみじが植えられ、りんどうの花が墓前に飾られていた。 

 夏目漱石の墓は、ものすごくおおきかった。業務用の冷蔵庫ぐらいある。りっぱで、上から水がかけられない。水をかけられるのを嫌がっているように見える。戒名は、文献院古道漱石居士。
 おすもうさんが塩をまくように水をひっかけたら、せみが鳴きはじめた。漱石の墓前で、今年はじめてせみの声をきいた。
 

 ひと目をひく、あかい墓があった。ジャズ評論家・いソノてルヲの名が刻まれている。
 学生のとき、夏になると会っていたひとだった。バンドのコンテストに出場すると、きまって司会は、いソノさんだった。よく通る声で歯に衣きせぬ感想をいわれた。一九九九年四月二十一日に亡くなったと知った。
 生前のすがたを知っているひとの墓にむきあうと、新しいしゃれた墓石は、居心地が悪そうだ。ひとに近い墓というのもある。

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by ouraiza | 2002-01-01 01:30 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)
『マッケレブ宣教師著作集①』
『マッケレブ宣教師著作集① (「道しるべ」シリーズ)』
1998コピー版 2006現代語版 2010改訂版
繁國良明/個人発行 128頁 A5判冊子

「 それから十五年間築地に居りましたので三人の子供は皆東京で生まれました。しかし、だんだん子供が育ってきましても、当時は西洋人の子供のための学校が足りませんでしたから、十五年目の終わりに子供と妻とを帰国させることに致しました。それと同時に築地の地所を売り払って、新しく雑司が谷に引越し、それから、現在まで一人で住んで居ります。」
「A 自叙伝 1 自らを語る (「道しるべ」1929昭和4年11月号より)」より 

巻末「年表」より抜粋
1861(文久1)テネシー州に生誕
1892(明治25 31歳) 4月宣教師隊の一員として横浜に上陸 築地の外国人居留地に居住 小石川で最初の礼拝 5月四谷に移転 神田・鮫が谷スラムにて慈善学校 7月築地に戻る
1893(明治26 32歳) 神田に教会堂を建てる
1895(明治28 34歳) 神田に建物購入
1896(明治29 35歳) 小石川に上富坂教会会堂建築
1899(明治32 38歳) 8月一時帰国
1901(明治34 40歳) 8月日本に戻る
1902(明治35 41歳) 神田の住宅を小石川区茗荷谷に曵き家、マッケレブ宣教師館 小石川に借家、東京バイブル・スクール
1904(明治37 43歳) 東京バイブルスクール閉鎖
1906(明治39 45歳) 雑司が谷に土地購入 6月家族を寄稿させる
1907(明治40 46歳) 9月雑司が谷学院完成 10月雑司が谷学院開設
1909(明治42 48歳) 2月雑司が谷チャペル完成
1919(大正8 58歳) 4月二回目の一時帰国
1920(大正9 59歳) 12月日本に戻る
1923(大正12 62歳) 関東大震災 雑司が谷学院の一部破損 資金難で再建不能
1929(昭和4 68歳) 三回目の一時帰国 1月から11月まで世界一周旅行 日本に戻る
1930(昭和5 69歳) 雑司が谷1-24から曵き家 現在の場所に移動
1936(昭和11 75歳) 4回目の帰国 白内障手術
1937(昭和12 76歳) 年末日本に戻る
1941(昭和16 80歳) 2月米国大使館より在日米国人全員に帰国命令 10月横浜から帰国 ロサンゼルスに居住
1942(昭和17 81歳)ロサンゼルスにて再婚
1946以降(昭和21〜 85歳〜) 療養生活のうちに詩作約400編
1953(昭和28 92歳) 11月召天
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by ouraiza | 2002-01-01 01:25 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)
『東京近郊一日の行楽』田山花袋の見返し図案
f0035084_16121121.jpg『東京近郊 一日の行楽』田山花袋著
大正12年初版 博文館
見返し図案 雑司が谷の郷土玩具「すすきみみずく」
装丁者不詳(池田永治?)・「牛」サイン
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by ouraiza | 2002-01-01 01:20 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)
『アメニティのうた 雑司が谷詩集』 酒井憲一
f0035084_022573.jpg『アメニティのうた 雑司が谷詩集』酒井憲一/著
タウン誌「わがまち雑司が谷」・前島郁子/発行 小池俊夫/装幀
平成9年 A5判97頁

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by ouraiza | 2002-01-01 01:15 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)
「父の墓」 八木義徳
f0035084_21161083.jpg『男の居場所』八木義徳 昭和53年初版 北海道新聞社 所収

初出「北海道新聞」昭和51・9・29

「父の墓」冒頭部分
 いま借りている仕事部屋から雑司ヶ谷墓地が近いので、よく散歩に出かける。
(中略)
 待合所の前に出された看板の標示にしたがって、これらの墓の一つ一つを、足にまかせて訪ね歩くのはとてもたのしい。
ところで、これはやはり人気というものだろうか、漱石や夢二の墓には、いつ訪ねても花が供えられている。下戸で酒は一滴も飲めなかったという生前の漱石を知らないのか、時には、かんビールやワンカップの日本酒などが供えられていることもある。
 また、いつかは夢二の墓の前にビニールに包んだおはぎが五個ほど供えられていたこともある。これはおそらく夢二ファンの女性の供物だろう。
 それにしても、墓というものはつくづく不思議なものだと、いつもここへくるたびに思う。墓はあきらかにその人間の”死”の標識でありながら、その前に立つと、逆にその人間の“生”の全体像ともいうべきものが、実に鮮明な輪郭をもって、私の前に立ちあらわれる。
(中略)
 「棺を蓋いて事定まる」という古語には倫理的な意味があるらしいが、そういう倫理的な意味合いをのぞいたもっとも素朴な意味においてでも、これは至言だと思う。
 そういう意味で、墓というものは“死”の標識ではなくて、むしろ“生”の象徴である、といえるかもしれない。

ーーー以降、父親とその墓地(多摩)のはなし
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by ouraiza | 2002-01-01 01:10 | メモ/雑司が谷の本 | Comments(0)