2014/12/29    せと
 ザズタロービエ。

 痩せてひげを生やしたロシア人は言った。
 よちよちした英語で、おいしい、をロシア語でどう言うのか尋ねた答えだ。
 1998年の大晦日。ぼくは正月でも嵐でも休まない、文字通り年中無休の古本屋で店番をしていた。3年目にもなれば休みの無さに慣れ、さらによじれて、休日の賑やかな世間に背を向けて古本屋の番台にいることに快感すら覚えていた。

 その古本屋は東京都が運営する大きな劇場にテナントとして入居しており、池袋駅の西口から近く、すぐそばに海外からの旅行者にとっては安いらしい大型のホテルもあったから、外国人客が多かった。外国からのお客さんには旅の途中のほがらかさがあり、少しでも店の雰囲気を明るくしたかったぼくにとってありがたい存在で、その接客が好きだった。国民性というものがほんとにあるのかわからないが、外国人への接客を通して得た各お国柄の印象が確かにあり、それはとてもありきたりなものだ。中国の人はマケろと言い、フランスの人はフランス語に固執し、南米の人は陽気だった。

 大晦日の夜7時ぐらいに来たロシア人は、店の片隅に申し訳程度においてあるクラシックレコードを熱心に物色し、2、3枚を購入してくれた。ロシア人は番台前で上機嫌に話しかけてきた。お互いに英語を文法通りに話すことはできず、とにかく単語を並べる。あなたは日本に何をしに来たのかという問いに、俺はレニングラード管弦楽団でオーボエを吹いている、と彼は応じた。ベートーヴェン、第九、年末恒例のコンサート、などと話は続いた。確かに、店の大家である劇場は毎年末に第九コンサートを大々的に開く。これからの演奏を控えつつ、本番前に散歩でもしているのだろうと思った。

 脈絡を思い出せないが、少し待っててくれ、と言いロシア人はいったん店を出て行き、15分もしないうちにくしゃくしゃの茶色い紙袋を抱えて戻ってきた。ジャパニーズフードはうまいか、などという会話の途中だったか。彼が袋から取り出したのは、サランラップにくるまれた肉のかたまりと、透明な液体が入った瓶。肉のかたまりは、ごわごわと硬い半透明の脂身だった。小型ナイフでその脂身をほんの少し削ぎ、食え、とぼくに渡した。初めて口にする食感だった。しょっぱさに肉の旨味がからみつき、無性においしかった。さらに彼は自分で一口ラッパ飲みした瓶をよこした。みんな。その肉を食う。そして。この酒飲む。ロシア。冬。とても寒い。と寒さに震えるジェスチャーをする。乱雑な店の備品入れから気長に紙コップを探す雰囲気ではなかった。想像通りその液体はウォッカで、きつく、のどが熱かった。塩分の強いなんの動物の肉かわからない脂身とのどを刺すウォッカの組み合わせは、客がほとんど来ない大晦日の古本屋でうつむいて本を拭いているぼくには、目の覚めるようなおいしさだった。デリシャス。おいしい、はロシア語ではなんと言うのか。ザズタロービエ。と彼は教えてくれた。ザズタロービエ。そう。あはは、ザズタロービエ。

 脂身とウォッカとザズタロービエを数回繰り返してから、彼は、自分の仕事が終わったらまた来るから待っていてくれと言った。ホテルの部屋でウォッカを飲もうぜ。よしわかった、10時に店を閉めるから適当に待っている。年が明ける12時までには戻るからニューイヤーパーティーだ、と約束をし、彼は出ていった。

 1998年の最後の営業を終え店を片付けると、いつもどおり閉店を待っていたホームレスさんたちが店のガラスの壁沿いにダンボールのねぐらを建て始める。ぼくは店の前の低い階段に座って彼を待った。そのうち横たわって待った。池袋西口は白々と賑やかだった。二つ折りの携帯電話を何度も開いて時計をみた。1時過ぎまで待ったが、彼は来なかった。新年を迎えていた。

 お客さんと交わした何気ない会話の中の単語を憶えていることはめったにない。しかしザズタロービエは忘れていない。通り過ぎる人の種類が多い、一見のお客さんが多い土地の小売業者は、他愛ない、小さな嘘に囲まれて営業をしている。確かめる必要もない虚と実を抱えてお客さんはやってくる。ザズタロービエは本当においしいという意味なのか。ぼくは馬鹿です、を意味するロシア語なのではないだろうか。ぼくは脂身をウォッカで流し込みながら、ぼくは馬鹿です、と満面の笑顔で何度も言っていたのかもしれない。その後十数年、オーボエ奏者のロシア人が教えてくれたザズタロービエの正体不明さがおもしろくて、時折思い出して口に出すだけで、正確な意味など知らなくてもよかった。

 つい先日テレビを観ていたら、ロシアの家庭の日常風景が紹介されていた。なにかのお祝いだろうか、家族が集って食卓を囲んでいる。やがて全員がグラスを持ち上げた。家長らしき老人の一声に皆が続いた。ザズタロービエ。ザズタロービエ。
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by ouraiza | 2014-12-29 22:25 | Comments(2)
Commented by 岳坊 at 2014-12-30 00:26 x
 レニングラード国立歌劇団付属管弦楽団。なつかしや。
 ぼくも某ホテル近くのフィットネスジムに、この季節になるといつも数人のロシア人が来ていたことを思い出します。
 仲良くなったのはオーボエ、じゃなくてチューバ奏者のアレクセイさん。パリに暮らす娘さんのことをいつも自慢していました。
 聴きに来てくれよな、というのを真に受け、渋谷のオーチャードホールへ。学生としては奮発してS席チケットを買ったはいいものの、2階席のためアレクセイからは見えなかったらしく、あとで「ホントに来てくれたのか?」と訝しがられてしまった。
 幕間に指揮者の譜面を直すふりして僕を探しにきてくれたアレクセイに大声を出すのが恥ずかしくて、声を掛けそびれたのです。ゴメン、アリョーシャ。

 うまくいってもいかなくても、片言のコミュニケーションっていつも記憶に残ります。そういえばオーケストラの男性は女性楽団員にジムで会うと、手の甲にキスをする挨拶をしてました。「アンナ・カレーニナ」みたいに。
 ズドラーストビチェ。
 格好良かったな。

 瀬戸さん、みなさん、良いお年を。
Commented by ouraiza at 2014-12-30 11:43
岳坊様 そうなのですか、やはりあの時期のあの周辺、楽団みたいな方々が外国から来ていたのですね。あの人がほんとにそうだったのかわからないけど。ぼくも名前訊いておけばよかったなあ。訊いたのかもしれないけど忘れていて。よきお年を〜〜〜。せと
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