ザズタロービエ。
痩せてひげを生やしたロシア人は言った。 よちよちした英語で、おいしい、をロシア語でどう言うのか尋ねた答えだ。 1998年の大晦日。ぼくは正月でも嵐でも休まない、文字通り年中無休の古本屋で店番をしていた。3年目にもなれば休みの無さに慣れ、さらによじれて、休日の賑やかな世間に背を向けて古本屋の番台にいることに快感すら覚えていた。 その古本屋は東京都が運営する大きな劇場にテナントとして入居しており、池袋駅の西口から近く、すぐそばに海外からの旅行者にとっては安いらしい大型のホテルもあったから、外国人客が多かった。外国からのお客さんには旅の途中のほがらかさがあり、少しでも店の雰囲気を明るくしたかったぼくにとってありがたい存在で、その接客が好きだった。国民性というものがほんとにあるのかわからないが、外国人への接客を通して得た各お国柄の印象が確かにあり、それはとてもありきたりなものだ。中国の人はマケろと言い、フランスの人はフランス語に固執し、南米の人は陽気だった。 大晦日の夜7時ぐらいに来たロシア人は、店の片隅に申し訳程度においてあるクラシックレコードを熱心に物色し、2、3枚を購入してくれた。ロシア人は番台前で上機嫌に話しかけてきた。お互いに英語を文法通りに話すことはできず、とにかく単語を並べる。あなたは日本に何をしに来たのかという問いに、俺はレニングラード管弦楽団でオーボエを吹いている、と彼は応じた。ベートーヴェン、第九、年末恒例のコンサート、などと話は続いた。確かに、店の大家である劇場は毎年末に第九コンサートを大々的に開く。これからの演奏を控えつつ、本番前に散歩でもしているのだろうと思った。 脈絡を思い出せないが、少し待っててくれ、と言いロシア人はいったん店を出て行き、15分もしないうちにくしゃくしゃの茶色い紙袋を抱えて戻ってきた。ジャパニーズフードはうまいか、などという会話の途中だったか。彼が袋から取り出したのは、サランラップにくるまれた肉のかたまりと、透明な液体が入った瓶。肉のかたまりは、ごわごわと硬い半透明の脂身だった。小型ナイフでその脂身をほんの少し削ぎ、食え、とぼくに渡した。初めて口にする食感だった。しょっぱさに肉の旨味がからみつき、無性においしかった。さらに彼は自分で一口ラッパ飲みした瓶をよこした。みんな。その肉を食う。そして。この酒飲む。ロシア。冬。とても寒い。と寒さに震えるジェスチャーをする。乱雑な店の備品入れから気長に紙コップを探す雰囲気ではなかった。想像通りその液体はウォッカで、きつく、のどが熱かった。塩分の強いなんの動物の肉かわからない脂身とのどを刺すウォッカの組み合わせは、客がほとんど来ない大晦日の古本屋でうつむいて本を拭いているぼくには、目の覚めるようなおいしさだった。デリシャス。おいしい、はロシア語ではなんと言うのか。ザズタロービエ。と彼は教えてくれた。ザズタロービエ。そう。あはは、ザズタロービエ。 脂身とウォッカとザズタロービエを数回繰り返してから、彼は、自分の仕事が終わったらまた来るから待っていてくれと言った。ホテルの部屋でウォッカを飲もうぜ。よしわかった、10時に店を閉めるから適当に待っている。年が明ける12時までには戻るからニューイヤーパーティーだ、と約束をし、彼は出ていった。 1998年の最後の営業を終え店を片付けると、いつもどおり閉店を待っていたホームレスさんたちが店のガラスの壁沿いにダンボールのねぐらを建て始める。ぼくは店の前の低い階段に座って彼を待った。そのうち横たわって待った。池袋西口は白々と賑やかだった。二つ折りの携帯電話を何度も開いて時計をみた。1時過ぎまで待ったが、彼は来なかった。新年を迎えていた。 お客さんと交わした何気ない会話の中の単語を憶えていることはめったにない。しかしザズタロービエは忘れていない。通り過ぎる人の種類が多い、一見のお客さんが多い土地の小売業者は、他愛ない、小さな嘘に囲まれて営業をしている。確かめる必要もない虚と実を抱えてお客さんはやってくる。ザズタロービエは本当においしいという意味なのか。ぼくは馬鹿です、を意味するロシア語なのではないだろうか。ぼくは脂身をウォッカで流し込みながら、ぼくは馬鹿です、と満面の笑顔で何度も言っていたのかもしれない。その後十数年、オーボエ奏者のロシア人が教えてくれたザズタロービエの正体不明さがおもしろくて、時折思い出して口に出すだけで、正確な意味など知らなくてもよかった。 つい先日テレビを観ていたら、ロシアの家庭の日常風景が紹介されていた。なにかのお祝いだろうか、家族が集って食卓を囲んでいる。やがて全員がグラスを持ち上げた。家長らしき老人の一声に皆が続いた。ザズタロービエ。ザズタロービエ。
by ouraiza
| 2014-12-29 22:25
|
Comments(2)
Commented
by
岳坊
at 2014-12-30 00:26
x
レニングラード国立歌劇団付属管弦楽団。なつかしや。
ぼくも某ホテル近くのフィットネスジムに、この季節になるといつも数人のロシア人が来ていたことを思い出します。 仲良くなったのはオーボエ、じゃなくてチューバ奏者のアレクセイさん。パリに暮らす娘さんのことをいつも自慢していました。 聴きに来てくれよな、というのを真に受け、渋谷のオーチャードホールへ。学生としては奮発してS席チケットを買ったはいいものの、2階席のためアレクセイからは見えなかったらしく、あとで「ホントに来てくれたのか?」と訝しがられてしまった。 幕間に指揮者の譜面を直すふりして僕を探しにきてくれたアレクセイに大声を出すのが恥ずかしくて、声を掛けそびれたのです。ゴメン、アリョーシャ。 うまくいってもいかなくても、片言のコミュニケーションっていつも記憶に残ります。そういえばオーケストラの男性は女性楽団員にジムで会うと、手の甲にキスをする挨拶をしてました。「アンナ・カレーニナ」みたいに。 ズドラーストビチェ。 格好良かったな。 瀬戸さん、みなさん、良いお年を。
Commented
by
ouraiza at 2014-12-30 11:43
岳坊様 そうなのですか、やはりあの時期のあの周辺、楽団みたいな方々が外国から来ていたのですね。あの人がほんとにそうだったのかわからないけど。ぼくも名前訊いておけばよかったなあ。訊いたのかもしれないけど忘れていて。よきお年を〜〜〜。せと
|
ouraiza@gmail.com
171-0022 東京都豊島区南池袋 3-8-1-101 03-5951-3939 (FAX同) 12時台ー20時 月曜日定休 臨時変更休業あり 古書往来座twitter 店員のむみちtwitter 店員TTtwitter 往来座編集室 ONLINESTORE 最新のコメント
カテゴリ
全体 名画座かんペ集 工作 のむのノミムメモ メモ/雑司が谷の本 ハーリー戦記 雑司ヶ谷霊園(作成中) メモ/スモールロングセラー 池袋本処地図(休止) 迷い靴(ブログ化) 外市情報(終了) 台所大賞(休止 多数「工作」に移動) 絵心本(終了) たいくつ(休止) みみずのふん(終了) ふらふら散歩(終了) こみにぎり(終了) 未分類 以前の記事
2024年 03月 2024年 02月 2024年 01月 2023年 12月 2023年 11月 2023年 10月 2023年 09月 2023年 08月 2023年 07月 2023年 06月 2023年 05月 2023年 04月 2023年 03月 2023年 02月 2023年 01月 2022年 12月 2022年 11月 2022年 10月 2022年 09月 2022年 08月 2022年 07月 2022年 06月 2022年 05月 2022年 04月 2022年 03月 2022年 02月 2022年 01月 2021年 12月 2021年 11月 2021年 10月 2021年 09月 2021年 08月 2021年 07月 2021年 06月 2021年 05月 2021年 04月 2021年 03月 2021年 02月 2021年 01月 2020年 12月 2020年 11月 2020年 10月 2020年 09月 2020年 08月 2020年 07月 2020年 06月 2020年 05月 2020年 04月 2020年 03月 2020年 02月 2020年 01月 2019年 12月 2019年 11月 2019年 10月 2019年 09月 2019年 08月 2019年 07月 2019年 06月 2019年 05月 2019年 04月 2019年 03月 2019年 02月 2019年 01月 2018年 12月 2018年 11月 2018年 10月 2018年 09月 2018年 08月 2018年 07月 2018年 06月 2018年 05月 2018年 04月 2018年 03月 2018年 02月 2018年 01月 2017年 12月 2017年 11月 2017年 10月 2017年 09月 2017年 08月 2017年 07月 2017年 06月 2017年 05月 2017年 04月 2017年 03月 2017年 02月 2017年 01月 2016年 12月 2016年 11月 2016年 10月 2016年 09月 2016年 08月 2016年 07月 2016年 06月 2016年 05月 2016年 04月 2016年 03月 2016年 02月 2016年 01月 2015年 12月 2015年 11月 2015年 10月 2015年 09月 2015年 08月 2015年 07月 2015年 06月 2015年 05月 2015年 04月 2015年 03月 2015年 02月 2015年 01月 2014年 12月 2014年 11月 2014年 10月 2014年 09月 2014年 08月 2014年 07月 2014年 06月 2014年 05月 2014年 04月 2014年 03月 2014年 02月 2014年 01月 2013年 12月 2013年 11月 2013年 10月 2013年 09月 2013年 08月 2013年 07月 2013年 06月 2013年 05月 2013年 04月 2013年 03月 2013年 02月 2013年 01月 2012年 12月 2012年 11月 2012年 10月 2012年 09月 2012年 08月 2012年 07月 2012年 06月 2012年 05月 2012年 04月 2012年 03月 2012年 02月 2012年 01月 2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 09月 2011年 08月 2011年 07月 2011年 06月 2011年 05月 2011年 04月 2011年 03月 2011年 02月 2011年 01月 2010年 12月 2010年 11月 2010年 10月 2010年 09月 2010年 08月 2010年 07月 2010年 06月 2010年 05月 2010年 04月 2010年 03月 2010年 02月 2010年 01月 2009年 12月 2009年 11月 2009年 10月 2009年 09月 2009年 08月 2009年 07月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 08月 2008年 07月 2008年 06月 2008年 05月 2008年 04月 2008年 03月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 12月 2007年 11月 2007年 10月 2007年 09月 2007年 08月 2007年 07月 2007年 06月 2007年 05月 2007年 04月 2007年 03月 2007年 02月 2007年 01月 2006年 12月 2006年 11月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 01月 2004年 01月 2003年 12月 2002年 01月 2001年 12月 |
ファン申請 |
||